今日は金剛禅がなぜ法句経を重んじるのかというお話です

仏教の歴史は変質の歴史と言ってもよいと私は思っています。

教えが広められ多くの人々に受け入れられるたびにその土地で受け入れられやすい様に変質しては、「これではいけない、原点に戻れ」という運動が起こってきたのです。

釈尊が否定していた呪術・祈祷だって現代の仏教には在りますよね、でも、そんなもので人々は救われはしない、極力、曲がった変質したものに頼らずに安心を得ようとするならば、原点の教えに帰らなければならないと考えたのが、達磨大師であり、開祖宗道臣もその一人だったのではないでしょうか。

だからこそ、開祖は原始経典の法句経を教えに用いたのです。

法句経は「真理の言葉」と理解されつつも、「小乗のお経」と認識され、ほとんど顧みられることのなかった歴史があるのです。

「神仏」という言葉があるように、「神様・仏さまと・・・」他力により救われるという考え方が、都合の良い解釈をした新しい教えを作り出し、教えを変質させてきたのです。

達磨の教えや般若心経には他に頼る教えではなく、真理が記され、己の自我を無くし迷いと苦しみから離れることが説かれているのです。開祖、宗道臣も苦悩の根源は自らの期待や欲にとらわれる心が原因だと説き、「自己確立」がそこからの脱出方法だと説かれているのです。だからこそ、同じことに気付いて主張したと思われる達磨大師を前に立て、本尊として尊び、二入四行論を「拳禅一如」に置き換え、金剛禅の修養体系を作られたのではないでしょうか。「達磨大師が開祖の夢枕に立った・・・。」といういかにも胡散臭い言葉で文献には残されていますが、学べば学ぶほどこれは方便だったのだと思えるようになってくるのです。

「おのれこそ おのれのよるべぞ

おのれを措きて 誰がよるべぞ

よく ととのえし おのれこそ

まこと得がたき よるべをぞ獲ん」(160番)

法句経の中でも最も有名な句が金剛禅では「聖句」として重んじられているのです。

 

金剛禅は祈れば救われるというような胡散臭い教えは一切ない仏教の宗派です。

少林寺拳法を学びながら理を身に付け、理から法を感じ取れるようになって行ける教えなのです。学んでいくうちに、自信や勇気、行動力を身に付け、正義感や慈悲心を持って行動できるようになり、迷いから離れていける教えなのです。是非、一緒に学んでみましょう。

      道院長 江間秀樹

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